独身という名の「清純派アイドル」
かつて、我々には「聖域」があった。
テレビの画面越しに、独自の美学と偏屈なこだわりを武器に、「一生独身を貫き、孤独を飼い慣らす狂気の表現者」として君臨していた男たちだ。
メッセンジャー黒田有の度を越したケチと毒舌、ケンドーコバヤシの風俗愛と趣味への逃避、そしてアンガールズ田中の「抱かれたくない男」という自虐の鎧。
彼らは、我々のような「持たざる孤独者」にとっての救いであり、同志であり、偶像だった。
「彼らほどの才能と富があっても一人なのだから、自分が一人なのは必然であり、むしろ高尚な選択なのだ」 そう信じ込ませてくれる、一種の宗教的指導者ですらあった。
だが、今やその聖域は瓦解した。
アラフィフという「人生の上がり」を目前にして、彼らは次々と、我々が最も忌み嫌っていたはずの「温かい家庭」へと逃げ込んだ。
これは「わたし男の人が苦手なんです」とほざきながらファンから投げ銭を募っていたアイドルが、実は裏で高級マンションの地下駐車場で恋愛を謳歌していた事実と、何ら変わりはない。
むしろ女性アイドルとして旬の短い彼女たちよりも、長きにわたって我々を欺いていた分、彼らの方が罪は深く重い。
我々は、彼らの「独身という芸風」に、人生の貴重な時間を収奪されていたのだ。
「ビジネス孤独」という名の計画的脱獄
彼らの結婚を「おめでたいニュース」と捉えるのは、あまりにナイーブすぎる。
これは、冷徹に計算された「計画的脱獄」である。
考えてもみてほしい。30代、40代という、男として最もエネルギーが溢れ、遊び歩ける時期、彼らは「独身・孤独」という記号を最大限に利用して稼いできた。
独身だからこそ言える毒舌、独身だからこそ許される趣味への埋没。その「不完全さ」に、視聴者は親近感を抱き、スポンサーは金を払った。
彼らは、独身という泥を自らの体に塗りたくることで、世間の警戒心を解き、その裏で着々と「妻帯者」になるための資産と基盤を築いていたのだ。
そしてアラフィフ。一人でいることの「自由」が「孤独死の恐怖」へと変色し始める絶妙なタイミングで、貯め込んだ「独身料(出演料)」を手に、若く美しい伴侶というゴールテープを切った。
これは、独身を貫く我々への「組織的な背信行為」だ。
彼らにとって独身は、人生を豊かにするための期間限定の「役作り」に過ぎず、我々にとっての独身は、逃げ場のない「現実」である。
この決定的な格差を、彼らは祝福の拍手の中に巧妙に隠蔽した。
アンガールズ田中の「高スペック」という目くらまし
特に罪深いのは、アンガールズ田中のケースだ。
「キモかわいい」から「抱かれたくない」への変遷を経て、彼は自らを「恋愛弱者」の象徴としてプロデュースしてきた。その姿に、どれほど多くの独身男性が「自分と同じだ」と錯覚し、勇気づけられたことか。
しかし、冷静に分析してみれば、彼は身長188cmの高身長であり、広島大学卒の高学歴、そして数億円の貯蓄があると言われる超高収入の「超ハイスペック個体」である。
彼が独身だったのは、ただ「選んでいなかった」だけであり、我々が独身なのは「選ばれていない」からだ。
この残酷なまでの前提条件の差を、彼は「自虐トーク」や「リアクション芸」というベールで覆い隠してきた。彼の結婚は、同じ地平に立っていると信じていた戦友が、実は空母の上で戦況を高みの見物していた事を意味する。
「50歳になれば、自分もあんな風に逆転できる」という希望を振りまくこと自体、高齢独身者に対する最も残酷な呪いである。
残された「本物の欠陥品」への宣告
彼らが「あちら側」へ行ったことで、残された我々の価値観は相対的にさらに貶められた。
彼らの結婚は、世間に対して「どんなに偏屈で独身を謳歌しているように見える男でも、結局はアラフィフで結婚するのが正解である」という強烈なメッセージを発信してしまったからだ。
彼らが家庭を持ち、妻や子供とのエピソードを語る度に、独身を貫く一般男性は「中年になってもあちら側へ行けなかった、修正不可能な遺伝子のシステムエラー」として、社会から烙印を押されていく。
かつての同志が放つ幸福の光は、我々の孤独を照らし出すスポットライトとなり、その影をより濃く、より不気味に浮かび上がらせる。
彼らは、独身者から搾り取った共感という名のエネルギーを燃料に、温かい家庭という新天地へ旅立った。
後に残されたのは、彼らの放った「毒」だけを真に受け、自らの人生を煮詰めてしまった、救いようのない「本物の孤独者」たちの群れだ。
生命の巨大な循環という「監獄」
見方によっては、彼らもまた、生命の巨大な循環(輪廻)というシステムに屈した「敗北者」なのかもしれない。
独身という狂気を極め、傾奇者として個の完成を目指すのではなく、結局は遺伝子の奴隷となり、家族という小さな檻の中で飼い慣らされる道を選んだ。
だが、その敗北ですら、我々にとっては手の届かない「特権的な幸福」である。
我々にできることは、彼らの裏切りを深く胸に刻み、彼らが捨て去った「孤独という名の狂気」を、一人で、血を吐きながら磨き続けることだけだ。
彼らの「おめでとう」の裏側で、我々の魂はまた一つ、死に近づいていく。
我々が信じていたカリスマたちは、最初から仲間ではなかったのだ。

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